昭和56年4月10日 月例祭

この度の御本部参拝、御本部から頂いてまいりました、今の教主様の歌集、お歌を集めたもの、その第7集が出ております。それを各教会に1冊頂いて、ま、帰りました。さっそくこの頃、目が薄くて見えませんから、佐田先生に毎日3、40分ずつ、それを読んでもらう。ほんとにこれは今の教主金光様のお徳だと思います。もうやっぱり一つの霊感といいますかね、インスピレーション、そういうものがあのお歌になって現れておるというものを一つ一つの歌の中から感じることができます。
その中に、心にとまる歌を読んでもらいながら、ここへ書き写させて頂きましたが、こういう歌が中にございました。「無駄を省くあらゆる工夫のいる今か」ね、「無駄を省くあらゆる工夫、工夫のいる今か」、今というのは、現代ちいうことですね、現今ということ。「無駄のすべてを心の無駄も」と、「無駄のすべてを心の無駄も」。色んなものをお粗末にしてはならないという事と同時に、心も無駄も、というのである。
次に「当然の成り行きなりと思いつつ聞く不自然な成り行き話。当然の成り行きなりと思いつつ」ね、「聞く不自然な成り行き話」。えー、ほんとにあたくしどもの心の中から、ね、無駄心を使わんですむ、いうなれば、取越し苦労をせんですむ、色々と人間心ばかりを使うて、えー、心が重くなるようなことがある、苦しくなるようなことがある。そういうこんな無駄なことはないから、こういうことを思わんですむようなおかげを受けたい。
先だって、5日の壮年会の時に久富繁雄(ヒサドミシゲオ)さんが発表しておられましたお話の中に、ね、言わぬが花というが、ね、はあ言わんでおって良かったと、合楽で言われる黙って治めるということがです、ただ黙って治めただけでは、なるほど、はあ言わんでおって良かったと思いますよね。例えば、時間が経ちますと、ほんとに言わんでよい事を言おうとしたり、感情に、で、出そうとしたりするのでございますけれども、ね、「言わぬが花だけれども、言わぬが花ではいけん、その花が実りにならなければと、この頃しきりに思う」という話をなさいました。
みなさん、合楽でご縁を頂いとる方はみんなこの黙って治めるという体験をそれぞれお持ちだろうと、こう思う。ね、その稽古はね、なるほど言わんですむという事が、こんなにも有難いものだと分からなきゃいけんのです。その有難いものが本当なら、あたしも助かり人も助かり、その事柄もまた、好転しておかげになっていくのです。それがなからなければだめだと。ただ自分が黙ってこらえておった、から良かったというのは自分だけの事。それは言わぬが花であるけれども、その言わぬが花が実りになるおかげを受けなければと。ね、そういうことじゃないでしょうかね、心の無駄。
先ほど、鞍手の柴田(シバタ)さんが、今度、御本部参拝して大変おかげを受けられた。もう第一、教祖様の奥城、三代様の奥城と巡拝をさせて頂くときに、神様から次々と頂いたことのお届けがあっておりましたが、私と三代金光様が、ね、何かこう話をしながら、握手をしておるところ、しかも親先生と三代金光様の仲が真空になっておるというお知らせであった。
お互いに人情心というものを使わずに、いわゆる真空状態、何にも無い状態、ということではな、あたくしは、このことを今日はお話聞いてもらおうとは思わなかったけれども、その柴田(シバタ)さんのお届けを今聞かせて頂きながら、ちょうど目の前書いておったのをこう見たら、しかもこれは、昨日と今日と違うけれども、その、これ裏表にそのことを書いてある。ね、一つは今、「当然の成り行きなりと思いつつ」ね、「聞く不自然の成り行き話」と、というのが書いてある。これ一枚に裏表に書いてるんです。
んーだからそのことを、まあ今日は聞いて頂こうと思ったわけですけれども、今、繁雄(シゲオ)さんの言われる、言わぬが花というだけではいけない、花が実りにならなければというほどしのその心こそが、あたくしは真空の状態だと、いうならば、ね、心の無駄を段々いうなら取っていくということは、我情を取り、我欲を取っていくということだと思うんです。
そこに、我が身は神徳の中に生かされてある喜び、その喜びこそが真空の状態である。ね、そういう状態を自分の心に、もう心が重うてたまらん、心が苦しい、ああでもなかろう、こうでもなかろうかと、取越し苦労をする。ね、それはもう人間だからこんくらいなことは当たり前といやあ、もう合楽の信心は無いです。ね、そういうものがね、我情になり我欲になって出てこんように、いわゆる我が身は神徳の中に生かされておる喜びを感じさせて頂く、真に有難いと思う心、そういう心を育てていく手立てが合楽理念なんです、ね。
今日もある方が、毎日熱心に参ってくるおばあさんです。嫁さんと折り合いが悪いということではない、こちらがもう信心で受けていくから。ところがあたくしが話を聞いておって、ほんなこつのというごたる時は時々ある。先だってからも、ね、「御本部参拝するからお弁当作ってもらおう」と、と言うたらもう「自分で作っていけ」と、ね、もうそれを平気で言う。ね、そしたら自分でまあ、おにぎり作ったりこうしよったら、ある信心友達の方がみえられて、嫁があたくしものを今日2つも作ってくれとるから、なら1つはもうあげますから、もう作りなさらんでよかですたい、というて、まあそういうお繰り合わせも頂くのですから、どういう場合であってもその嫁の在り方の中に。
ところがです、先日、昔ここの神愛会の5年の記念祭の時に、カレ、あたくしの教えを書いたカレンダーが直会として出た。それが今でも大事にもう神様の前に毎日毎日の日めくりとして使わせて頂いておった。ところがそれがこう何枚か引き破っちゃる。どこさいったじゃろうかと思いよったら、塵かごの中に捨ててあった。ね、まあ大抵の事なら有難いで受けていくけども、どうも親先生、どういうような受け方をしたならよかろうかと。
で、あたくしは、ま、あー、申しました。「まあそういうね、嫁のそうようなことをね、こうして人に話したり、お届けをするということは、ある意味合いでは、上を向いて唾吐くようなもんだもんね」て。うん、「それをほんとに信心の材料として頂いておるなら、お礼だけしかないもんね」て。「けれども、そこにちょっと人情をつこうたら、あんたんとこの嫁の仕打ちというものは許されない。それこそ息子にでも一遍だん言うて、こんなふうなことだぞという事を言うてもよいような気がするけれども、それはどこまでも人情。ね、だからあなたなんかは、もうそれこそ合楽理念は十分に分かっておるのだから、ね、ひとつこれからは○○さん、十二分に分かるおかげを頂かなければできないね」というて話したことでした。
ね、黙って治めるという事だけの体験はもう十分でけておる、そこでその黙って治めるということが、いわば言わぬが花で治めておったけれども、その花が実りになる、その花が嫁にも伝わっていくようなおかげに、実りになっていかなければならない。だからあんたも十分の信心がでけとる、合楽理念も分かっとる、ね、けども、ひとつ十二分の信心を頂くということになったら、そこを少し超えたものがなからなければならんな、というてお話をしたことでございます、ね。
自分の心の中に思わんでもよいことを思うたり、心配せんでもよいことを心配をしたり、そういう心を取り除いていく手立て、ね、それが、いよいよ成り行きを大切にしていく、いわゆる黙って治めるという稽古。始めの間はもう辛いほどしに心に、いわばそれを、こんなことを黙っておらなきゃならんだろうか、と思うように修行に感ずるけれども、それが段々、はあおかげを頂いて言わんでおってよかったという花が咲く。ね、ところがこりゃあ自分の助かりだけである。だからその花が、今度はいよいよもって実りになるようなおかげを頂くためには、いよいよ自分の心を真空の状態にしていかなければならない、ね。
心は信心の定規じゃによって、と仰せられますから、例えばなら合楽理念で自分で黙って治めれる心こそが、これが合楽理念だと、まあ分かる。ところがこれにもう一つ今朝からの御理解の中にあるように、ね、なるほど心は信心の定規だが、その、心をまた確かめる、そこには実験実証して、そこには実証として現れてくるおかげこそがそうなんです。はあこれが真だ、真心だと自分で思うとるだけでも、それが真心、真としておかげになっていかないとするならば、その心もまたもう一遍、確かめてみなければならないというのです、ね。
そういう念の入った心の、心への取り組み方というものが、あー、稽古されていくところから、自分の心の無駄というものはいつの間にかなくなってくる、ね。いわゆる神様といよいよ交流する手立てである、ね。
次に、えー、柴田(シバタ)さんが頂いておられるのは、ね、「御神米ということの意味が分かるか」と神様から問われておる。はあ御神米たら、御神米、御神米で頂きよるけれども意味は分からなかった。お答えもできないうちに神様からまた頂いておられることがね、「御神米は、ね、天と地と太陽の恵みによるものぞ」と頂かれた。みなさんが御神米ただ頂く。ね、昨日でしたか、えー、川上(カワカミ)さんが、だれ、あるご信者導いてお参りして、そしてそこまで出た時にもうすでにバスがこう行きよる。「はあ遅れた」「いやあ、おかげですが」と言うて、そこまで出たところが表そこ前にすうっと自動車が止まった。全然知らない人である。そして自分がこうドアば開けて、「さあどうぞ」というて言われる。で、「あたくしどもは久留米西鉄まで行くとですが」て、「はいどうぞ」て言われるから、まあ乗せて頂いた。
ところがその方が言われるのに、「私はここの裏のもんでございますけれども、ここん神様の御神米ちいうとは、えらい効きますの」ち言わっしゃった。「はあ、そりゃあ有難いですよ、もうあたくし共は、もうお神酒さんと御神米だけでどんな場合であっても頂いておかげを受けております」という話をされた。その方が言われるのに「実は私の妹がもう医者からは何日の命と言われた。それがここの久保山さんのおかげで」、久保山さんがずうっとお願いをしてくださっておったそうなんです。そして御神米をいつもくださってあったが、「その御神米を頂くようになったら、退院して帰って今日元気のおかげば頂いとる」ちいう。「もうあたくしは、ここん金光様の御神米の効くとには驚いとります」というお話であった、ね。
みなさんもそういう体験があるでしょう。御神米が有難いもんだ、それは天と地と太陽の御恩恵、お恵みによっての、いうならそういう祈りの込められたものであるから、ね、その気持ちで頂くから、おかげになるのだ。ね、それこそない命でも、一粒の御神米が天と地と太陽のお恵みが込められてあるんだとしての頂き方、ね、だから、そう言うたり思うたりするだけでは、しんから思うという事は、これは真に有難いという心、いわゆる真空の状態、我情が「?15:27」、我欲がその時だけでも無い心の状態になるおかげを頂かなければ、神様のそういう御恩恵もそれを頂きとめることができない、ね。例えば、お米だ、紙だと言うたら、紙であり、お米である、ね。
信心はどこまでも自分の心を、いわば見極めていくことである。これはほんとに黙って治めるということを実験し、実証していきよらないと、いわゆる今、繁雄(シゲオ)さんが発表されたようなところには分からないと思う。ただ黙って治め、はあ言わんでおってよかった、まあ言わんでおけば波風も立たん、ほんと言わんでおって良かっただけじゃなくて、言わんですむことが、それにはあたくしは合楽の信心をです、いうならば合楽理念を十分に分かったというだけではなくて、十二分のものがなからなければ、それ体験と実証とがおうていくものでなからなければ、本当のおかげにはならない。
それこそ、言わぬが花から、その花が実りになるような、おかげを頂いていくということ、そういう信心が続けられていくときに、ね、「無駄を省くあらゆる工夫」ね、「無駄を省くあらゆる工夫いる今か」ね。「無駄のすべてを心の無駄も」と。「当然の成り行きなりと思いつつ聞く不自然な成り行き話」。
今日あたくしがその方とお嫁さんとの話はね、あたくしから聞きよると、それこそ(笑)上向いて唾履くようなことばい、ね、そげなん不自然な、あー、ことでどうするか、なんのために合楽理念の研修、勉強、実験実証しておるかと、ま、言いたいようなところだけれども、ね、それが成り行きということが、そのままあたくしが黙って受けねばならぬ、拝んで受けなければならないほどしの大切なものである。ね、それを不自然なものにしてはならないということでございます。
今日は教主様のこのお歌二首を芯にして聞いて頂きました。この歌ひとつ覚えて帰って、ね、このことをいつも心の中にかけていかれる、そしてそこに次の信心の工夫をなされていったら有難いですね。
いよいよ御本部の御大祭の御ひれいを受けて、そしてこの16日にはおかげを、合楽の御大祭を頂くことになります。頂く前の信行、ね、それを例えば。只今聞いて頂いたようなお話を芯にして、これをほんとの修行として、御大祭を迎えさして頂く心を頂かれたら有難いですね、どうぞ。